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zoom RSS ジェンダー理論の世俗化

<<   作成日時 : 2006/02/19 02:20   >>

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 理論が広く知られ世に行われて行く中で様々の変化を被っていくことはそう珍しいことではない。具体的な局面に適合するように、部分的な改変や削除が行われていくこと、多くが理解しやすいように、思想的な根拠や出自がオミットされ、特徴的な具体相のみが喧伝されていくこと、いずれもよく見る光景だ。「机上の空論」や「現場を知らない」などという罵倒語が力を得ている昨今にあっては特に目立つ。それに、まあ悪いことばかりではなく必要なことでもあるのだろう。社会理論などは、そもそも世俗から出立する学問であり、広く適用できなくては意味をなさないとも言えるかも知れない。

 しかし、昨今のジェンダー理論を巡る世俗化の様相は、あまりに醜悪ではないだろうか?

 「ジェンダーフリー」という言葉を巡ってgoogle検索してみたらば、上位幾つかのサイトに書かれている内容があまりに異なることにめまいがするほどだ。問題は「どれが精確か」ではない(それは女性学の内部ですら未解決である)。また、「どれが政治的に正しいか」でもない(ジェンダーフリーという理論を批判することは誰にも許されているし、一定の批判を持つ研究者も多くいる)。そうではなく、これらの正反対に見える立場を、全て併せて持ってしまうような立場を、醜悪な世俗化と呼びたいのだ。

 ジェンダー理論家は、今や格好の戯画の材料である。「ヒステリック」、「世間知らず」、「図々しい」、「時代遅れ」等々、罵倒の言葉は限りない。また、公の場から言葉自体を排除しようとする動きすら一部では存在する。

 しかし、にもかかわらず、この世間はセクシャルハラスメントに関して異様に過敏でもある。芸能人から学者まで、「疑惑」を騒ぎ立てるだけで、ごく簡潔に息の根を止めることが可能である。

 よく、「あげて落とす」のがイエロージャーナリズムのやり口で、一貫性や思想性はそこにない、などと言われる。確かに、この件に関しても、「フェミ批判」と「セクハラ疑惑」とを併せて掲載する週刊誌など、珍しくもない。しかし、ことは週刊誌に止まらない。個人の処世としてそのような態度をとる人間が掃いて捨てるほどいるのだ。

 「フェミニズムみたいに過激な思想はねぇ」などと薄笑いを浮かべながら、「セクハラらしいから関わるのやめとこう。君子危うきに近寄らず」などとしたり顔で抜かす人間。どっちかにせえばかちんが。こういう人に限って、ジェンダー、障がい、年齢などのアファーマティブアクションになどちっとも関心をもたなかったりするわけだ。どこが君子だただの世渡りじゃねぇか。

 どうだろう?これは醜悪ではない?過激思想がよいと言っているわけではない。セクハラを見逃せと言っているわけでも勿論ない。それをしたり顔で使い分けるな、と言っているだけの話である。自分の態度に責任くらいとれよ。そういってしまえば当たり前のことである。しかし、その当たり前が通用しない世間に、我々は現に生きている。

 これは、理論自体が招いたものだろうか?そうではなく、それを「わかりやすくひろめる」際に本質的な部分が切り下げられた結果なのではないか。

 曲がりなりにも「ジェンダー論」などを担当する人間として、こういう状況にはかなり忸怩たるものがあるのだが、同業のみなさまは如何お考えだろう。というより、現実から出発するから空疎ではないのだ、と見栄を切っている本業社会学者のみなさまは、既に次の一手をお考えなのだろうか?そうだとしたらもうホントに心から期待してそれを待つ。

 どんな理論も諸刃の剣である。それは重々承知の上で、しかしこのような「理論をどのようにも利用してしまう世俗の知恵」を見るたび、寒々しい気持ちになることを禁じ得ない。

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