モリオカ三行日記(ブログ)

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zoom RSS 学部公開講座「不埒なことばたち―教科書に載らないことばの生態学」最終回に出席しました

<<   作成日時 : 2009/06/30 00:42   >>

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聴講者は全体で30名くらいかな。アジア文化論専修のみなさんの姿をお見かけできなかったのがちょっと残念。

菊地先生の演題は「判じ絵のことば遊び―絵画の謎解きと謎々の絵解き」。文字絵、葦手書から始まって判じ絵、絵解きへと、文字の意匠的側面と表音的側面、そして絵の表意的側面をフル活用した絵画と文字の複雑な相互交渉の様相を、ユーモアを交えながら(といってもそもそもネタ自体がだじゃれ的ユーモアの要素をふんだんに持っているのですが、それ以上の語り芸で)概観するもの。聴講者からも思わず笑いが洩れるような楽しい講義でした。

質疑の時間には、「これはどんな意図があって行われたものなのか。知識をひけらかす遊びなのかそれとも何らかの批判精神に支えられていたのか」というような一瞬こたえにつまるようなもの、そして「これは近代になってどうしてすたれたのか」という、私がこたえられなければならない質問も飛んでいました。

勿論、文字絵から判じ絵までをひとくくりにして「こうだ」ということはできませんし、また、いわゆる近代的なメディア以外の部分で行われ続けた絵解きのような近代地域文化について私、そして恐らくは近代文学・文化研究者全体がもうちょっとキチンと把握していなければならないのですが、取り敢えずの推論を立てることも可能であるように思います。

これらの「ことば遊び」を一種のペダントリーとして理解してしまうに至る道程では、恐らく、近代以降、現代の我々まで続く文学観、あるいは芸術観の決定的な変更、あるいは強化が起きた、と見るべきなのでしょう。勿論、衒学趣味をイヤミとして感じる姿勢はどの時代にもあり得ることですが、それは当然TPOに依存するのであって、知的遊戯それ自体をただちにペダンティックであると排するには、相当強固な「反遊戯」的芸術観が支配的である必要がないでしょうか。

「こどもの成長には遊びが有益だ」と声高に主張するわりに、自身は上手に「遊べない」大人が沢山いるといった現状を思い出したりもするわけです。だとしたら自分は上手く成長できなかった、あるいは最早成長などやめてしまったのだと主張しているようなものではないかと思ったり。

ここまで書いて、鏡花のある種のテクストには、この手の「前近代的」遊戯性が織り込まれていたのではなかったか、などと思い出してみるのは、もちろん、「強化/鏡花」というだじゃれ的連想です。

あまり上手にオチてはいませんがとりあえず。

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