モリオカ三行日記(ブログ)

アクセスカウンタ

zoom RSS 別に大文字の文学である必要はないな。小文字の文学である必要もないけど。

<<   作成日時 : 2010/03/15 22:20   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

手許に、『山形文学風土誌』(松坂俊夫、昭和50)という本がある。山形における日本近代文学のエピソードを網羅的に記述した本の一つである。著者は、長く山形にいて樋口一葉など近代文学の研究を続ける一方、郷土文学の基礎資料を固めることをライフワークの一つにした研究者。その冒頭付録に、「やまがた文学地図/作家の生地」という地図があり、47人の生地が書き込まれている。勿論、本文の中にはもっとたくさんの作家が紹介されているのであって、そこからより抜きといった趣向か。

もう一つ、手許に、『日本近代文学大事典』(机上版、小学館)から、山形に関わる作家を網羅的にピックアップしたリストがある。とある仕事で、ボランティア協力者の皆さんが作り上げてくださった労作である。そこには、山形というキーワードでヒットした作家が100人ほどピックアップされている。


さて、先の47人と後の100人との関わり、どのように想像されるだろうか?


実のところ、前者47名中、後者100名のリストにふくまれるのは、27名に過ぎないのである。


この事態をどう解釈すればよいのか。勿論、恣意的な選択に基づいた比較ではあるし、著者や編者、そして想定される読者を含めた両書物自体に固有のバイアスがないわけではなかろう。しかし、この数を目の前にして最優先に検証すべき作業仮説は、「東京の文学観と山形の文学観は異なる」ということ以外にないはずだ。

勿論、「山形の文学観」といった一枚岩を立ち上げることに必然性があるとは思えない。ちなみに言う。「やまがた文学地図/作家の生地」には、最上地方からは永山一郎たったひとりしか選ばれておらず、新庄市からは皆無である。

これはテクストの内在的読解可能性の問題である以上に、文学がどのように見いだされ、享受されてきたかを問いかける現象である。贅言するなら、内在的読解可能性によって文学の制度性を撃とうとする者は、まずはその制度性自身の由来について見定める必要がありはしないか。我々の文学体験はいつでも/常に、書斎の薄暗がりにしかその故郷を持ちえないのだとしても。

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
別に大文字の文学である必要はないな。小文字の文学である必要もないけど。 モリオカ三行日記(ブログ)/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる